【映画】蓮實重彦が語るクリント・イーストウッド

最近、イーストウッドの映画がよくわからない。

『よくわからない』という言葉が非常に当てはまる映画ばかり撮っている気がする。


ミスティックリバー、グラントリノチェンジリング。どれもよくわからない。すっきりした気分で観られないのだ。よくわからないというのを言い換えると、観客の感情移入を阻む何かがあるってことだと思う。

黒沢清蓮實重彦の『現代アメリカ映画談義』によると、イーストウッドストーリーと感情の山場をずらすということを意識的に行っている作家らしい。
ストーリーの山場と感情表現を一致させることは映画やドラマではセオリーだ。特に、テレビ局主導の邦画なんて、ここで泣いて下さいと言わんばかりに、役者は感情を爆発させ、感動的な局を挿入する。ここまでいくと、それはやり過ぎなんだろうと思うが、ストーリーの山場と感情表現を一致させることで、観客である僕らは物語についていける部分は大きいだろう。

例えば、ミスティックリバーについて、蓮實と黒沢は以下のように語っている。


蓮實 自分の娘が殺されたからといって、警察の遺体置き場に近いところでみんなでしゃべるシーンがありますよね。あそこは娘が暴行されて殺された、その遺体を検分するという場面で、ふつうだったら、誰かが号泣するような場所のはずなんですけど、あれをおそらくは脚本どおりに淡々と撮ってしまえるのだからすごい。ふつうショーンペンだったら、もっといろんなことがやりたくなると思う。それをやらせずに、淡々と撮るのは簡単にできるものなのでしょうか

黒沢 そういうのだけは嫌いみたいですね。ベタでわかりやすいことは嫌いじゃないんだけれども、おそらく俳優としてのなにかが避けさせるんでしょうね。感情を爆発させたりもするんですけど、ストーリーとしての山場と俳優の感情表現は絶対に一致させない。だから、とんでもないところでいきなり怒ったりする。『チェンジリング』でも、アンジェリーナジョリーがけっこう感情的芝居をしているところはあるんですけど、ストーリー的な山場では絶対にさせていない。むしろ沈黙させていたりする。「ここはだめ。芝居したかったらこっちでやって」という感じで(笑)、徹底してズラしている。


ちなみにこの手法は小津もやってるらしい。

東京から 現代アメリカ映画談義 イーストウッド、スピルバーグ、タランティーノ

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