『市民ケーン』は傑作である…と言われている。
だけど、今の時代にこの映画を観る人(僕含め)は「おもしろいけど、どこが凄いの??」ってなっちゃう。
その原因は、この映画が全く古くさくないからじゃないだろうか。僕らは回想形式に基づいた物語に対し親和性もあるし、パンフォーカスなんて普通に観てるだけじゃ違和感しか感じないと思う。
そして、この古くさくない理由は、この作品が今も模倣され続けている教科書的映画であるからなのだろう。いま僕たちが観ている映画の多くは『市民ケーン』のアップデートと言っても差し支えないはずだ。アップデートを見続けた僕らは、その基となった映画を観ても既視感しか感じない。故に「おもしろいけど、どこが凄いの??普通じゃん」になっちゃうのだ。
直近の映画で言えば、デヴィッドフィンチャーの『ソーシャル・ネットワーク』は、ほぼ『市民ケーン』と同じである。
映画はザッカーバーグと彼女の会話で始まる。彼女を苛立たせる会話しかできない主人公、こいつは一体なんなのか?何を考えているのか?これをずっと描いてくというストーリーラインだ。頂点に登りつめるが、孤独な男。実在の人物を脚色しているところ。言うまでもなく、これは『市民ケーン』。
『市民ケーン』の現代的リメイクなのだ。
映像的にも、パンフォーカスの多用など類似点多い、とにかくこの作品を観れば、『市民ケーン』が如何に模倣され続けている教科書的映画かというのが分かるはずである。
また、『市民ケーン』は美術的な観点からも評価されているそうで、
これは主人公ケーンが大統領に出馬した際の演説シーン。
彼自身の巨大なポートレートを背後にした演説会場の、メガロマニアックといってもいい、空間自体が醸し出す巨大艦はシュルレアリスム的ですらある。この場面は、意味論的には、選挙に出馬すること自体が既に、彼にとって、正気を逸脱した、狂気の状態にあることを観るものに感じさせ、やがて訪れるであろう落選という悲劇的な結末を暗示した、不安感を煽り立てるものなのだが、それ以前にも、サロンや新聞社の執務室、オペラハウスなどでの空間描写で、同種の視覚的効果が用いられ、積み重ねられているため、シュルレアリスティックであるにもかかわらず、観客がそれを自然に近い感覚で受け止めてしまっているのである。『映画のデザインスケープ』より
小難しいこと書いてる…
でも、言い得て妙という感じですなー。たしかに、選挙演説のシーンには自分も不安感や違和感というものを感じた。ちなみにメガロマニアとは誇大妄想という意味らしい。じゃあ、誇大妄想的って書けよ!!と僕は思う。うん、思います。
こうしたシーンを作り上げたのは、美術監督のヴァンネスト・ポルグレイズという人らしい。『市民ケーン』の他に、ハワードホークス、ヒッチコックといった巨匠とも仕事をしているそうだ。
色々書いたけど、とにかく、この映画を観て欲しい。できれば『ソーシャル・ネットワーク』とセットで。