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はーとぼいるどワンダフル。

映画、テレビ、マンガなどなど。たまに広告のことも。

続エヴァンゲリオンQを観る前に

エヴァンゲリオンについて社会学者、宮台真司の批評です。ユダヤ教とキリスト教の対立について非常に分かりやすいものになっています。



-人類はなぜ楽園を追われたのか

人類は楽園に暮らしていた所、ルシファーの化身である蛇にそそのかされて林檎を食っちゃった所から知恵がつくわけ、その結果楽園から追い出されるって話になってるんだけど、実際には創世記を読めば分かるんだけど、知恵の実を食ったからじゃなくて、知恵の実を食ったあと、このアダムが生命の樹を手に入れてしまう可能性があると、そうすると知恵の実と生命の樹を合体させると全能者になっちゃう、全能者って神のことだよね。絶対神はヤハウェってなってるんだけど、本当は名前の無い絶対神なんですよね。アダムも絶対神になっちゃったら自分が絶対者ではなくなる。だからこれを絶対に禁じなければならないということで、神様が楽園からアダムを追い出すという、そういうエピソードがある。

創世記には人間が生命の樹にアクセスできないように、使徒という番人を送り込む、エンジェルのことなんですけどね。簡単に言えば、それがエヴァンゲリオンの使徒なんですよ。人類がテクノロジーをどんどん発展させてきた結果ね、単に知恵がついてきただけでなく、生命をいじろうとしている。例えばね、遺伝子を操作して、テロメアという部分をいじれば永遠に生きられるかもしれない、そういう部分に手をつけようとしている。そういう部分にインスパイアされたのかもしれないですが。

-ユダヤ教とキリスト教の救済観の違

ユダヤ教は合一を許さない、全能者とせいぜい契約をして、怒られないようにしなければいけないっていう話で終わってるんだけど、キリスト教はそうではなくて、イエスが十字架に磔になることによって、人類が負っている原罪、つまり知恵の実を食った事による原罪をすでに購っているんだよね、なので実はもうその部分では神様に許されている。そうするとキリスト教徒にとっての最大の関心は最後の審判の時に永遠の生命を得られるかどうか、つまりこれは生命の樹が手にはいるかどうかと同じなんだけど、ユダヤ教では絶対、生命の樹を手に入れちゃいけないって話になっているんだけども、キリスト教にはイエスによる贖罪っていうモチーフが入っているせいで、皆が死んだあと、永遠の生命を得て神と合一するっていうね、そういう発想になっているわけ。その意味でユダヤ教とキリスト教の対立がそこにあるとも言える。


-ゼーレと碇ゲンドウ人類補完計画の違い

ゼーレという組織は、人間は罪を負っている存在だから、贖罪をすることによって、許してもらって、今ある不完全な状態から元に戻りましょうという発想なんだけど、それに対して碇ゲンドウはそうではないと。知恵の実を食って不完全な状態になったのを元に戻すようなやり方ではなくって、そもそもルシファーが、ルシファーっていうのは元々光りの存在っていう意味なのね、ギリシャではプロメテウスと呼ばれている存在で、元々悪い人という意味ではないのね。日本では悪魔って訳されてるけど、元々、楽園にいた存在は知恵も無いし、永遠の生命も無い、簡単に言えば普通に生きてる動物と同じ、知恵の実を食って人間になる、生命の実を食って使徒になるっていう構造が元々あるんだけど、碇ゲンドウが考えている救済っていうのは、ルシファーの呼びかけに応じて、生命の樹も手に入れる、それができれば我々が神になれるんだと神に許してもらうための人類補完計画がゼーレなんですけど、我々が神になるための人類補完計画碇ゲンドウっていう対立なのね、おそらくそれは設定でははっきり書かれているんでしょう。で、それに対して碇シンジがそんなのどっちもやだとはねつけるという構成になっているんですね、ただそれをストーリーにブレイクダウンするということに、97年の映画を通じてもあまり成功していない。


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