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はーとぼいるどワンダフル。

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クリーピー偽りの隣人 黒沢清のリアリティ問題について

映画

黒沢清の「クリーピー偽りの隣人」を鑑賞。「トウキョウソナタ」も「岸辺の旅」も素晴らしい作品だったが、本作は黒沢ファンが待望した監督の得意なホラー・サスペンスものである。

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犯罪心理学者の高倉は、6年前に起きた一家失踪事件を分析するため、唯一の生き残りである長女・早紀の記憶をたどっていたが、なかなか核心には迫れずにいた。一方、高倉が妻・康子とともに引っ越した新居の隣には、どこか掴みどころのない家族が住んでいた。

ただの扉なのに、ただの窓なのに、人が立ってるだけなのに、とにかくゾクゾクするのが黒沢清映画である。本作は本当にこわい。そして香川照之演じる西野は最初から気もち悪いのだが結構笑えるシーンも多い。

リアリティが無い問題について

この映画のレビューでよく観られるのが「警察が無能すぎる」「リアリティがない」などというものである。実際、リアリティと積み上げていった序盤から比べると後半はずいぶんファンタジー要素が強い。まあ黒沢清の映画っていつもこうだと思うし、そこがいいんじゃない!って話なのだが、初見の人が違和感を感じるのは間違いない。

トウキョウソナタ」でもリアリティを積み上げていった序盤から、役所広司小泉今日子のもとに現れた所から急にファンタジー要素が強くなる。そこからついていけなくなったなんてレビューもよく見かける。

下記リンク先の監督のインタビューを読むとあえて本作でもリアリティを薄めていたことが分かる。

realsound.jp

——今回の『クリーピー』はいわゆるエンターテイメント系小説で、エンターテイメント系小説というのは、その多くがリアリズムに重きを置いています。一方、これまで黒沢監督作品にとってリアリズムというのは、必ずしも重要視してこなかった部分だと思います。『クリーピー』の前半部分は黒沢監督作品としては非常にリアリズムに沿っていて、そこがとても新鮮に映ったのですが、やはり物語が進行するに従って、そのリアリズムのラインが曖昧になっていくように自分は感じました。監督とって、映画においてリアリズムのあり方というのをどのように定義をしているのでしょうか?

との質問に対して

黒沢:定義というほど強いものがあるわけじゃないんですが、小説と違って映画にとってリアルというのは簡単なんですよ。小説によってリアルな描写をするのは難しいことなのかもしれませんが、映画でリアルを描写するには、そこにあるものを映すだけでいいわけですから。現実にあったもの、現実にあった事件を、できるだけ忠実に再現して、そのまま撮ればいい。そのまま撮ることにかけては、映画ほど簡単なことはない。カメラというのは、そういうものですから。

なので、僕はどうしても、せっかくこれは映画なのだから、リアルではない場所までお客さんを連れていきたいと思うんです。最初からリアルを踏み外してしまうとお客さんがついてこられなくなってしまうこともあるので、最初はリアルを装うことはしますが、気がついたら、思いもかけない場所までお客さんが連れてこられてしまったと感じるような作品を作りたいと思ってしまうんですよね。そこにエンターテイメントとしての映画の価値があるんじゃないかなと。

このように黒沢清は本作でもリアリティを薄めていたことが分かる。そしてそれは思いもかけないリアルではない場所まで観客を連れて行くためだ。

モデルの事件は相当イカれている問題について

この映画の原作っておそらく北九州監禁殺人事件をモデルにしているのである。詳しくはリンク先から読んでもらいたいがこんな事件が実際に起こったことが信じられないまるでフィクションのごときお話です。

matome.naver.jp

北九州監禁殺人事件に並ぶ頭のおかしな愛犬家連続殺人事件をモデルにした園子温の「冷たい熱帯魚」も映画の後半部分は事実を大きく超えていく物語に改編されている。そもそも現実でこんなにおかしなことが起こってるのだから、映画というエンタテイメントは現実を超えていくためにリアルを超越していくのだろう。

黒沢清、21世紀の映画を語る

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