【スコセッシ的瞬間とは】
マーティンスコセッシの映画に必ず出てくるモチーフが唐突な「ぶちギレ」だ。
それは大体においてデニーロ、ジョーペシが急にぶちギレ、ムカつく奴をめちゃくちゃにぶん殴ったり、メッタ刺しにする。
映画評論家の町山智浩氏はこうしたシーンをスコセッシ的瞬間としている。更にブチキレる人間は⑴元々、気が弱いがキレるとヤバい奴 ⑵何も考えておらず、ムカついたらぶん殴る奴、⑶この2つが合わさって一つの人格になっている場合、この3つに分かれるという。
では、何でスコセッシは「ぶちギレ」に囚われているのか?
それはスコセッシ自体がそういう人だから笑
何でもスコセッシは元々カトリックの神父になろうとしていたらしい。だけど、「セックスしたい」、「ムカつく奴をぶん殴りたい」という衝動が抑えられず!?表現の世界に入ることとなったそうなのだ。
実際、4回離婚を繰り返しているスコセッシは奥さんにもぶちギレて壁を殴ったり、物を投げたりするんだと、、、かなり頭のおかしい人だなー、スコセッシ。
【レイジングブル】
ま、ここまでは前置きとして本題の『レイジング・ブル』
これは実在のボクサー、ジェイク・ラモッタの自伝を基にした映画だ。
映画は引退後のラモッタの独白から始まる。
「もうボクシングはいい、おれは舞台で劇を演じる」
『波止場』のセリフらしい。
1941年、ラモッタは7回もダウンを奪いながら判定で負けてしまう。当時のボクシング界は賭け目的の八百長試合にまみれていた。当然ラモッタは判定に納得しない。
「浮気でもしたから負けたと思っているのか?」
ラモッタは妻やセコンドを勤める弟に当たり散らす。
やがてラモッタはブロンド美女のビッキーに出会い、結婚。二人の共同生活は突如挿入されるカラーの映像で表現される。ホームビデオのような映像には絵に描いたような幸せだけが映し出されている。だが二人の結婚生活はそんな幸せで溢れたものではなかった。ラモッタはビッキーを愛するあまり彼女を束縛する。男と喋るだけで強い口調で問いつめる。ボクシングでも八百長に加担し、試合にわざと負けることも経験する。八百長試合でも決して倒れなかったのがラモッタの性格を表している。そんな苦難を乗り越え、彼はついにチャンピオンとなった。
タイトルを手にしたラモッタは練習を疎かにし、ビッキーへの束縛を強めていく。挙げ句の果てにビッキーは弟と浮気しているんじゃないかと疑いだし、ついに弟にまで手を出してしまう。タイトルを手にし、頂点まで上り詰めた男の悲劇だ。
【スコセッシとデヴィッド・フィンチャー】
この映画を観て思い出したのがデヴィッドフィンチャーの『ソーシャルネットワーク』だ。この映画で描かれるザッカーバーグは人の気持ちが分からないクズ野郎だ。冒頭の会話の後、彼女に振られてしまった腹いせにフェイスブックを作る。彼女を見返してやろうというのだ。フェイスブックが大きくなるにつれて、ザッカーバーグはかつての友人さえ首にする。頂点をとった時、彼の周りには誰もいなかった。誰も共感できない主人公、それが『ソーシャルネットワーク』のザッカーバーグだ。
『レイジング・ブル』のラモッタも同じだ。試合に負ければ人にあたる、妻が他の男と喋っただけで、嫉妬する。こんな主人公に共感などできない。
ではスコセッシは何を語りたかったのか。ラストの一節はこうだ。
そこでパリサイ人たちは盲人であった人を もう一度呼んで言った。
「神に栄光を帰するがよい あの人が罪人であることは私たちには分かっている」
すると彼は言った。
「あの方が罪人であるかどうか私は知りません
ただひとつの事だけ知っています
私は盲であったが今は見えるということです」
このヨハネによる福音書の一節はデヴィッドフィンチャーの『ゲーム』のラストにも使われている。盲人はラモッタであり、観客だ。そしてラモッタは罪人でもある。何にも挑戦しない多くの人はラモッタの人生を笑えるか?確かに彼はクズ野郎だ。だが 彼は『生きる』ことを教えてくれた。目を開かせてくれた。そういうラストではないだろうか。