なぜ宮崎駿の「ハウルの動く城」は意味がわからないのか。「もののけ姫」から始まった独特の作劇方法

 宮崎駿の作品は、ある時から「こういう映画だった」と語ることができない、意味不明なものになった。代わりに語られるのは、圧倒されるアニメーション表現と、複雑怪奇なテーマに関する考察である。その意味のわからなさが頂点に達したのが「ハウルの動く城」である。いつから宮崎駿の作品は、意味がわからなくなったのか。そして、「ハウルの動く城」とは一体どういう作品であるのか、まとめてみたいと思う。

宮崎駿は結末が決まらないまま、映画をつくる。

 宮崎駿の作劇スタイルは、結末を決めないまま、絵コンテを制作し、映画制作を進めていく。端的にいうと、それが「意味のわからなさ」の理由である。通常の映画と同じように、初めにシナリオを作り上げ制作していたのが、「天空の城ラピュタ」や「魔女の宅急便」といった作品まで。シナリオ無しで初めたのは「紅の豚」が最初だという。ジブリのプロデューサー、鈴木敏夫は、そんな独特の作劇方法が生まれた過程を著書でこう語っている。

シナリオなしにはじまったのは、「紅の豚」が最初です。最初のうちは、間に合わないから先に描こうということだったんです。話としてはだいたい、もうわかっていましたし。「途中で絵コンテを描いてやっていけばいんだ」なんて言っていたわけです。ところが、途中から主客転倒というか、目的が変わってきました。宮さんは「結末のわかっているものを作っても、鈴木さん、おもしろくないよね」なんて言い出す。ひとつの手法になってしまったんです。仕事道楽スタジオジブリの現場より

意識的にシナリオを決めずに制作を始めた「もののけ姫」

 そんな、シナリオを作らない独特の作劇を意識的に初めたのは、「もののけ姫」が最初だという。「もののけ姫」といえば、興行収入193億円を記録し、『E.T.』が保持していた日本の歴代興行収入記録を塗り替えた作品である。ジブリが国民的アニメーションとなったのは、この作劇方法が始まったタイミングとリンクしているのだ。そして、そうして生まれた作品の「意味のわからなさ」は、後に「ハウルの動く城」で頂点を極めることとなる。
 シナリオを先に作らないことで、結末がどうなるかわからないことを監督・スタッフ含めて味わうことで映画を面白くするという意図があったようだが、物語は複雑化し、以降、宮崎駿の映画は常に「終わらせ方」に悩むこととなる。

「もののけ姫」以降、国民的映画になるのと反比例して、内容は複雑化

『もののけ姫』以降、動員人口が激増して国民的映画になるのと反比例して、内容は難解さを増し、一般的には理解されなくなっていった複雑化した宮崎駿映画について、映画評論家の町山智浩はこう語っている。
type-r.hatenablog.com

決定的だったのは『もののけ姫』で、ヒロイン自身が殺戮をする人で、彼女と対立するエボシ御前も殺戮をする人で、殺戮をしない人が出て来ない。登場人物も、善か悪かわからない人ばっかりで、映画を観た人も誰を応援すればいいのか分からないんじゃないの?って内容だった。

それから、”悪”の定義が変わりました。『コナン』や『カリオストロ』の悪人は誰が見てもはっきりわかる、非常にわかりやすい敵キャラだった。ところが、そういうわかりやすい悪人っていうのは、『ラピュタ』のムスカを最後に一切出て来ないんですよ。だから、『ラピュタ』より後の宮崎アニメは、誰が悪なのか分からない映画になってるんですよ。

町山は、もののけ姫を例に出し、わかりやすい善悪の対立がなく、美しいものも、汚れたものも渾然一体となった映画となってしまったと語る。

鈴木敏夫が語る、「もののけ姫」のもう一つのラスト

わかりやすいクライマックスがない「もののけ姫」のラストについて、鈴木敏夫はこう語っている。

主人公の一人であるエボシ御前の死と、タタラ場の炎上、それがないとしまらないのではないか、と。とくにエボシ御前のような人は歴史上でもたいてい死んでいて、しかし考えたことは正しいところがあるから、それを受け継いだアシタカがもののけ姫=サンとともに生きていく。そうすればオーソドックスな話にまとまると思ったんです。(仕事道楽スタジオジブリの現場より

 宮崎は、鈴木の提案にやっぱりそう思うよね?と言い、ラストを鈴木の案に従って作業を進めようとしたらしい。しかし、宮崎駿はエボシ御前を殺せず、片腕がもぎとられるという結末となった。宮崎駿は映画づくりの中でキャラクターに肩入れしすぎるのだという。そして、大切なキャラクターであるエボシ御前を殺せなかった。
 そんな複雑性に満ちた「もののけ姫」が国民的映画と言われるほどの大ヒットを飛ばしたのは、ひとえに鈴木敏夫の宣伝の力にあったと考えるのが、普通の解釈である。鈴木敏夫が「もののけ姫」で行った圧倒的な宣伝について詳しくはこちらから
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宮崎駿自身が語る自身の作品が理解されないことへの怒り

 「もののけ姫」を起点に宮崎駿作品はどんどんわけのわからない世界へ突き進んでいくこととなる。大衆が理解できる範疇を完全に超えてしまった自身の「ハウルの動く城」の賛否について、答えたインタビューがある。全文はこちらで。ghibli.jpn.org下記、引用する。

宮崎:『ハウル』の評価には怒ってますよ、ものすごく! 殴りにいこうかと何度も思って(笑)。
説明するための映画は作らないと決めた以上、俺は説明しない!っていうことでやったら、やっぱり半分ぐらいの人はわからないみたいなんですよね。これはきわめて不愉快な現実でしたね。これは前から感じてたんですけど、理屈が通ってるのが好きだっていう人たちはいるんですよ。その人たちは映画を観なくてもいいと思うんだけどね、僕は(笑)。と言ってもしょうがないんで。お客さんがお金を払ってくれるんですから。

宮崎:ダイアナ・ウィン・ジョーンズ(原作者)……ぼくは彼女の罠にはまりましたね。 彼女のストーリーは、女性読者にとってはすごくリアリティのあるものなんです。 ですが、彼女自身は世界の仕組みがどうなっているのかということに全然関心がない。
それに、小説に登場する男性はみんな少し悲しげで、静かに佇んでいて……要するに、まるで全員が彼女の理想の夫のようなんです(笑)。

使われる魔法にも何のルールもないですし、そうするとまあ、収拾がつかなくなるわけです。
でもぼくは、そのルールを逐一説明するような映画は作りたくなかった。それは、ゲームを作るようなものですから。
だから、ぼくは魔法の理屈を説明しない映画を作ったんですが……そしたらぼくも途中で迷子になってしまった(笑)

なぜかはわからないんですが、この映画に対する反応は極端なものばかりでしたね。
心の底から好きだと言う人と、まったく理解できなかったと言う人がいました。散々な経験でしたよ(笑)。

押井守が語る「ハウルの動く城」の解釈

 宮崎駿の盟友、押井守監督は、そんな複雑性の頂点になる「ハウルの動く城」を最も好きな作品と評し、自身の作品の解釈を著書「誰も語らなかったジブリを語ろう」で語っている。

押井:「ハウル」はいい。ジブリの作品のなかで一番好き。ストーリーが明快じゃないとか、辻褄が合ってないとか、そういうことはいままでの宮さんの映画と何ら変わりはない。そういうことは、いまさら言ってもしょうがないから。じゃあ『ハウル』の何を評価するするのか?ひと言で言うと、あのカチャカチャですよ。宮さんが歳を取ったという心境の変化を、カチャカチャがよく表していると思った。

ーハウルの城のドアに取り付けられたチャンネルみたいなものですね。扉の向こうが4つに分かれている。

押井 僕はあれに本当に感心した。あれは何を表していると思う?

ー宮崎さんの心が4つに分かれているということ?

押井 いや、その数は関係ない。女性は判りにくいかもしれないけど、男はすぐ判る。とりわけオヤジならすぐピンとくる。オヤジは無意識にあのカチャカチャをやっているから。つまり、意識的で無意識であろうが、いくつかの人格を演じ分けているんだよ。会社で働いてきたオヤジが家に戻るとカチャっと変わる。どこかでお姉さんよろしくやっているときもカチャっと変わる。息子や娘を相手にしているときも変わる。要するに人間って、いくつかの世界を別々に生きている生き物だということ。そのなかにはモンスターになってしまう暗黒面もある。モンスターになって戦場を飛び回っているダークサイドを必ず抱えて生きているということなんだよ。
 オヤジの内面的世界の多重性を、たったあれだけで、説得力をもって表現されたのを映画で観たのはおそらく初めて。僕はとても気に入った。カチャカチャ回して一瞬で切り替わる。素晴らしいよ。(「誰も語らなかったジブリを語ろう」より)

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