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内田樹さんによるヒッチコックの傑作『裏窓』の構造分析に驚愕。

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 内田樹さんの『映画の構造分析』読了。なかなか面白い本だった。この本、映画批評の本なのだと勘違いして手にとったのだが、それは著者のまえがきで否定される。「これは映画批評(のような)本ですが、映画批評の本ではありません」じゃあ、何なんだよ?というと「誰でも知っている映画を素材に使った、現代思想の入門書」ということ。著者によると、今までのラカンやフーコーやバルトやデリダからの引用を華麗にちりばめた映画批評は「おれはラカンやフーコーデリダとかむずかしい本を読んだ上で映画批評書いてるんだぜ!」という主張をするがための引用であったという。どうもニューアカや蓮實チルドレンが嫌いなようで(笑)この本はそういったくだらないものではなく「ラカンやフーコーは何を言っているのか」という問いに答えるためのものなのだ。

 

 この本で一番面白かったのはヒッチコックの『裏窓』についてである。この『裏窓』という映画、主人公が歩けないという設定からカメラが映すことができる範囲が限られている。観客は当然、セールスマンの部屋で殺人事件は行われたのかということに神経を集中する。しかし、著者は『セールスマンの部屋での殺人事件』はヒッチコックが本当に見せないようにしているものに気づかせないためのフェイクだという。いったいヒッチコックは何を見せないようにしていたのか?

 

・ 2つのルール

  この映画では冒頭にルールが提示される。第一に「カメラはジェフが見えるものしか写さない」第二に「それに加えてカメラはジェフ自身を写す事ができる」、この2つだ。前者はジェフが身動きがとれないという設定で視野が限定されているためだ。後者について、その必要性を著者はこのように説明する「例えば、私が誰かといっしょに過ごした場面を回想するとき、そこにはほとんど必ず私自身も映り込んでいる。それは「私が見たもの」の記憶だけでは、そこで何が起こったのかを「正確」に再現することができないからだ。「私が見たもの」の他に、そこに居合わせて「私を見ていた誰か」の視覚記憶も、出来事の物語的再現のためには不可欠である。」このように著者は視覚記憶はつねに「私と誰か」の合作であるとする。しかし第二のルールの中でも、なお「見えないもの」がある。それはジェフの部屋を行き来するリサがキッチンでどのようにコーヒーをいれて、どんなふうに部屋着に着替えるかだ。つまり、誰かがジェフと同じ空間に居合わせていたとしても、その誰かがジェフを見ていないときには、その視線がとらえたものを自分の記憶に取り込むことはできないのである。

 

 著者は「観客が見えるはずのないもの」についてこう結論づける。それは「ジェフを見ていない眼が見ているもの」である。そして映画のラスト、セールスマンの部屋で殺人が行われたことが明かされた時に観客は見えないところで起きた事が全て見られたと感じる。繰り返しになるがここで著者は言うヒッチコックがほんとうに「見せないようにしている」は「セールスマンの部屋ではない」」

 

 ・観客は何を見落としてきたのか

『裏窓』では上記のルールを破る視線が出てくる。ジェフが眠っている時に居間を抜け出し、中庭を取り囲む人の暮らしを見る視線だ。これを著者は「他者の視線」とする。

映画のラスト近く、この「他者の視線」は全能性を帯び、客観的に愛犬の死体に泣く老女、窓から顔をだす住民を映し出す。そしてカメラは中庭の中空に漂い、建物を様々なアングルから映す。観客は中庭の全貌を眺め渡したという印象を抱いて、この画面を見終わることになる。ここで著者は一つの疑問を呈する。

 

「しかし、ほんとうにそうなのだろうか。カメラはたしかにクールに超然と中庭をめぐる建物を眺望する。だが、実際には、微妙にアングルを変えながら、それは中庭の三方向だけしか撮していない。カメラはジェフが住むアパートの壁面だけは決して撮さないのである。

 

そう、僕ら観客は向かいの棟の殺人事件に集中するあまり、「何を見落としてきたのか」を気づかずにきたのだ。

 

そしてラスト、ヒッチコックの意図が皮肉な形で示される。セールスマンによりジェフが窓から放り出され落下するシーンだ。

 

このとき、カメラはジェフの居間から出て、「中庭から」窓枠にぶらさがるジェフを見上げ、中庭に落下したジェフを見下ろす。この場面でジェフを見ている視線はあきらかに中庭からジェフの部屋を見上げる人たち(リサとステラと警官たち)に同調している。だから、カメラはたしかに居間の外に出ているけれど、映像が「ジェフを見つめる眼が見ているもの」である以上、これは適法なカメラワークなのである。

 

私たちはジェフがしがみついている窓枠と、彼の居間の窓を含む壁面をこのときはじめて見る〜このときこの第四の側面のどの部屋にも明かりはついていないし、人が住んでいる気配もない。

 

ヒッチコックはセールスマンによる殺人事件の解明に観客を集中させ、観客が見させられていないのはセールスマンの部屋だと思わせる。しかし、ヒッチコックは映画のラスト、『お前らがほんとに見てないのはこれだよ?』と皮肉に映し出すのだ。

いやはや、内田さんの指摘の鋭さにびびる。しかし、そもそもジェフのアパートに人が住んでる気配がないっていうのは、これ一体何を示しているのだろう…まさかねえ…

 

下線部は『映画の構造分析』からの引用です。

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