鈴木敏夫と宮崎駿の出会いや熱いエピソードまとめ

 ジブリ鈴木敏夫プロデューサーと宮崎駿の熱い関係を鈴木敏夫の著書「天才の思考 高畑勲 宮崎駿」や、「鈴木敏夫のジブリ汗まみれ」の発言からまとめてみた。

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鈴木敏夫と宮崎駿の出会い

鈴木が、アニメージュの取材依頼で高畑、宮崎へ電話したのが2人の出会い

 徳間書店で、アニメージュの編集をしていた鈴木敏夫は、高畑勲監督、宮崎駿がアニメーターを務めた「太陽の王子 ホルスの大冒険」という作品の評判を聞き、高畑へ取材依頼の電話をかけたのだという。
 電話に出た高畑は、取材を受けたくないらしく、「なぜ取材を受けなければいけないのか」という理屈を1時間に渡って、やりとりしてきたのだという(笑)そこで、高畑が「ホルス」を一緒につくった男を紹介するといい、電話に出たのが、宮崎駿だったという。これが鈴木敏夫と宮崎駿の出会いだ。
 電話に出た宮崎は、隣で高畑の電話を聞いていたといい、取材は受けるが、8ページじゃなく16ページで特集を組め!と言ってきたらしい(笑)「ホルス」を語る上で、東映の組合活動から、語らなければならないから、16ページは絶対に必要だと30分、熱弁されたのだという。
 鈴木は、圧倒されながら、取材をすることは一旦諦めたのだという(笑)

宮崎:「胡散臭い男が来た」と思った。

 その後、2人が初めて顔を合わせたのが、宮崎が「ルパン三世 カリオストロの城」制作中の時である。鈴木がスタジオへ、取材に行くと、宮崎は取材に答えてくれず、一心不乱に書き続けていたという。宮崎は後に鈴木が初めてスタジオに現れた時に、「胡散臭い男が来た」と思ったと語っている(笑)
 なかなか帰らない鈴木に宮崎はこう話したのだという。

宮崎:アニメーション・ブームだからといって商売をする「アニメージュ」には好意をもっていない。そんな雑誌で話したら、自分が汚れる。あなたとはしゃべりたくない。(天才の思考 高畑勲と宮崎駿 より)

 そんな宮崎の言葉に腹を立てた鈴木は、宮崎が仕事をする机の横に深夜3時まで居座ったのだという。朝9時から、深夜まで宮崎の隣に座り、話してくれるようになったのは3日目のことだったという。「カリオストロの城」のカーチェイスシーンを描いていた宮崎が、こういう時の専門用語ってないのか?と尋ねてき、鈴木の部下が「まくりって言うんですよ」と。そこから、宮崎は急に鈴木たちと喋りだすようになったのだという。宮崎や高畑の仕事ぶりに驚嘆した鈴木は、ストイックな真の作家とはここにいたのかと感じ、毎日、宮崎駿と高畑勲に会いにいくようになったのだという。

風の谷のナウシカ

干されている宮崎に新作をつくらせたい鈴木が動く

 「ルパン三世 カリオストロの城」は、今でこそ名作とされているが、当時、興行収入は大コケ。宮崎は5年ほど、業界を干されたのだという。どうしても宮崎に映画をつくらせたい鈴木は、宮崎に頼み企画を出してもらい、徳間書店の映画企画委員会に持っていったのだという。しかし、委員会から、原作もないものを映画にできない!と言われ断られた鈴木。そのことを宮崎に相談すると、宮崎は「じゃあ、原作を書きますか?」と言い出した。そこで、生まれたのが、漫画版「風の谷のナウシカ」である。

高畑勲がプロデューサーを引き受けてくれず、宮崎駿、号泣。

 漫画で連載していた「風の谷のナウシカ」の映画化にあたって、宮崎駿が鈴木敏夫に出した条件が、高畑勲をプロデューサーにすることだった。鈴木は、高畑に依頼するが、引き受けてくれず。挙げ句の果てに、高畑は、大学ノートにプロデューサーとは何かを資料としてびっちりとまとめ、その最後に、だから私はプロデューサーに向いていないと締めくくっていたそうだ(笑)
 鈴木は根負けし、宮崎駿に交渉失敗したことを告げると、急に飲みに誘われたという。宮崎は、日本酒を一気に空け、俺は高畑勲に青春を捧げたのに何も返してもらっていない、と話し号泣した。そんな宮崎の姿を見ていたたまれなくなった鈴木は、高畑を怒鳴りつけ、結果プロデューサーを引き受けてもらったそうだ(笑)

スタジオ・ジブリの誕生

高畑勲が、宮崎が稼いだ制作費を使い倒した

 「風の谷のナウシカ」ヒット後、宮崎は稼いだお金を自分のためだけで使いたくないと言い出し、高畑勲の「柳川堀割物語」の制作費にあてることに、しかし高畑の異常なこだわりによって、制作期間は伸び、ついには宮崎駿の自宅を抵当にいれなければならない事態となったのだ。

鈴木はもう一本、映画を作ることを提案

 宮崎に制作費がなくなったことを相談された鈴木は、大変だが、もう1本映画をつくって、稼ごうと提案。すると宮崎はすぐに映画の企画をバーっと話し始めだのだという。それが、「天空の城 ラピュタ」の原型となる企画だったのだ。
 企画を決めて、さあ動き出そうという時に、制作に協力してくれるスタジオが見つからなかったのだという。「風の谷のナウシカ」の制作スタジオのトップクラフトはナウシカで、アニメーターが疲れ果てて、大量に辞めてしまっていた。そこで、鈴木は徳間書店の出資をとりつけ、トップクラフトを発展的に解散・改組する形でスタジオ・ジブリを設立したのだ。

鈴木が語る宮崎駿との関係

彼のおかげで社会性が無くなってしまった。

鈴木:彼ってね、自分のことを全部自分でやるんですよねぇ。本当に僕はあれ関心する。信州の山小屋に籠もる時もね、ご飯は自分でつくる、お風呂も自分で沸かす。全てやってくれる。もっと身近なことで言うと、近くを2人で歩いてる時、電車の切符まで買ってくれるんですよ(笑)山小屋行った時は、「鈴木さん、風呂沸いたよ!」でしょ?僕、入るだけなんですよ(笑)出てくると、もうご飯できてるんですよ(笑)だから、彼と付き合いだして、30何年、全く僕、社会性がなくなっちゃったんですよね(笑)(「鈴木敏夫のジブリ汗まみれ」より)

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